裏溝桜→ウワミズザクラ
三月二十一日現在のウワミズザクラの花穂の状態です。間も無く開花しますので又 up致します。この桜🌸は森や林の出口に好んで生息します。万葉の時代には ハハカノキ と呼ばれていました。
占いに 鹿の肩甲骨の裏側に溝を掘り ハハカノキの樹皮を燃やして焼き 割れ方などで占った。
万葉集巻第十四 3374
武蔵野に 占部かた焼き まさでにも
告らぬ君が名 占に出にけり
それにしても
ウラミゾサクラ が
ウワミズザクラ に
どうしたら 変化するのかしら?
それにしても二年目の枝の表皮の美しいこと。
「高麗」の背景
photoはご存知 国家珍宝帳 聖武天皇が崩御され光明皇后が宝物を東大寺と法隆寺に奉納されたお品書き。
時の政権を担う仲麻呂 長手 そして福信らが自筆サインをした。
その福信だが こま を巨萬 と表記している。天平勝宝二年750年一月従四位上肖奈福信ら六人に高麗朝臣の姓賜わる。とあり正式には 高麗 が正しい。国事の正式な記述に許されるのか?
実は後年 宝亀十年三月 従三位高麗朝臣福信に姓を高倉朝臣と賜ふ。とあり 後の櫜伝に「宝亀十年 書を上りて言さく 臣、聖化に投じてより 年歳己に深し、但し新しき姓の栄、朝臣は分に過ぐと雖も旧俗の号高麗は未だ除かれず。伏して乞はくは 高麗を改めて以って高倉とせむことを」と。詔してこれを許す。とある。日本人にはこの辺りは疎い。韓国人には絶妙なニュアンスがあるのだ。
翻って「高麗神社⛩」だが 高句麗人の若光の末裔が創建したのには 違和感が無いか?
宿谷氏と毛呂氏
西坂戸(埼玉県坂戸市)
高麗川が日高市で北上し やがて東に向きを変える。秩父山脈が平野に代わる地点に城山がある。山肌は険しく絶壁に近い。守りに適した山城の典型だ。
市は「田波目城」としているが 名称は何種類かある様だ。旧家長谷川家(狭山市柏原)にこの城に関して古文書が遺る。江戸期に書き写した書だが信憑性がある。その古文書によると大永四年1524年十月十日関東管領上杉憲房は河越城主上杉朝興と共に毛呂城🏯を攻めた。とある。また別の古文書に 同年十月十七日憲房方の毛呂城入城の記載が確認されます。
宿谷氏と毛呂氏は この城を守っていたのです。宿谷氏はこの城の西方 宿谷川の源流に地名があり 葛貫に大寺廃寺がある。関連性が俄かに浮かぶ。