for Irving

師Irvingに捧ぐ

花の色は

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花の色は 雪にまじりて 見えずとも

      香をだににほへ 人のしるべく

古今和歌集巻第六冬歌335小野篁朝臣

 

花の色は 移りにけりな いたずらに

      我が身よにふる ながめせしまに

古今和歌集巻第ニ春歌下113小野小町

 

小野小町小野篁朝臣の養女と伝わる。

小町は養父篁の歌が注目される様にバックアップしたらしい。しかし皮肉な事に小町の歌が蔓延る。

三月下旬から四月上旬に掛けて関東も良く降雪となる。平安京はどうだったのか? 因みの篁の花は梅(むめ) 小町の花は桜🌸である。

知り合いが個展を開催すると 励ます意味で良く篁の和歌を贈った。

しかし 真意は伝わらず 道は遠い。

 

 

裏溝桜→ウワミズザクラ

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三月二十一日現在のウワミズザクラの花穂の状態です。間も無く開花しますので又 up致します。この桜🌸は森や林の出口に好んで生息します。万葉の時代には ハハカノキ と呼ばれていました。

占いに 鹿の肩甲骨の裏側に溝を掘り ハハカノキの樹皮を燃やして焼き 割れ方などで占った。

万葉集巻第十四 3374

武蔵野に 占部かた焼き まさでにも

  告らぬ君が名 占に出にけり

 

それにしても

       ウラミゾサクラ   が

             ウワミズザクラ   に

どうしたら 変化するのかしら?

それにしても二年目の枝の表皮の美しいこと。

「高麗」の背景

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photoはご存知 国家珍宝帳 聖武天皇崩御され光明皇后が宝物を東大寺法隆寺に奉納されたお品書き。

時の政権を担う仲麻呂 長手 そして福信らが自筆サインをした。

その福信だが こま を巨萬 と表記している。天平勝宝二年750年一月従四位上肖奈福信ら六人に高麗朝臣の姓賜わる。とあり正式には 高麗 が正しい。国事の正式な記述に許されるのか?

実は後年 宝亀十年三月 従三位高麗朝臣福信に姓を高倉朝臣と賜ふ。とあり 後の櫜伝に「宝亀十年 書を上りて言さく 臣、聖化に投じてより 年歳己に深し、但し新しき姓の栄、朝臣は分に過ぐと雖も旧俗の号高麗は未だ除かれず。伏して乞はくは 高麗を改めて以って高倉とせむことを」と。詔してこれを許す。とある。日本人にはこの辺りは疎い。韓国人には絶妙なニュアンスがあるのだ。

翻って「高麗神社⛩」だが 高句麗人の若光の末裔が創建したのには 違和感が無いか?

宿谷氏と毛呂氏

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西坂戸(埼玉県坂戸市)

高麗川日高市で北上し やがて東に向きを変える。秩父山脈が平野に代わる地点に城山がある。山肌は険しく絶壁に近い。守りに適した山城の典型だ。

市は「田波目城」としているが 名称は何種類かある様だ。旧家長谷川家(狭山市柏原)にこの城に関して古文書が遺る。江戸期に書き写した書だが信憑性がある。その古文書によると大永四年1524年十月十日関東管領上杉憲房河越城主上杉朝興と共に毛呂城🏯を攻めた。とある。また別の古文書に 同年十月十七日憲房方の毛呂城入城の記載が確認されます。

宿谷氏と毛呂氏は この城を守っていたのです。宿谷氏はこの城の西方 宿谷川の源流に地名があり 葛貫に大寺廃寺がある。関連性が俄かに浮かぶ。

 

木曽(源)義仲と源頼朝

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世に言う 清和源氏 です。

現実には清和天皇という天皇の存在はない。義仲と頼朝は 従兄弟同士。

義仲は信濃 頼朝は伊豆で挙兵する。

天下の、平家を破り上洛を果たしたのは義仲。寿永二年1183年七月。折しも全土で食糧難 飢餓でバタバタ死者の山。京も同様。そこへ大軍の兵を。やることなす事 へまばかりで不評この上なし。

それでも元曆元年1184年一月後白河院は義仲に征夷大将軍を与える。頼朝には崩御しても与えていない。

しかし頼朝の義仲追討の命を受け 足早に京に上る義経に討ち取られる。ひと月保たない征夷大将軍であった。

義仲は嫡男義高を頼朝に人質に出していた。もう一つの悲劇が起こる。